1巻のファンティーヌ
・生い立ち(1-3-2)
ユゴー先生曰く「庶民のどん底から咲き出たような人間の一人」で、バルジャンが市長になるモントルイユ・シュル・メール(Montagne-sur-Mer)の生まれです。
ファンティーヌは、両親は本人にもわからず、名前を持たない子供でした。町に教会がなかったため洗礼を受けておらず、従って洗礼名もありません。ファンティーヌという名前は、子供の頃に通りがかりの人が勝手につけてくれたものです。
10歳で生まれた町を出て付近の農家に働きにいき、15歳の時に「一儲けしに」パリに出て、女工(お針子)となります。そしてコゼットの父になる人、後述するトロミエス知り合います。
真珠の歯と黄金の金髪をもつ美人です。世間知らずなところがあり、トロミエスと「夫婦のように」愛し合ってコゼットを設けますが、トロミエスは彼女を残して家に帰ってしまいました。
・モントルイユという町
いきなり話が逸れます。
ファンティーヌの故郷でありバルジャンが市長になるモントルイユ・シュル・メール(Montagne-sur-Mer)は実在の町です。他の町、バルジャンの故郷ブリー、司教様のディーニュ、テナルディエの宿屋のあるモンフェルメイユなどなども実在します。
メールMerはフランス語の「海」で、「海のそばのモントルイユ」みたいな名前の町です。歌の冒頭で水夫が出てきて「港に錨をぶち込むぞ」と歌うことで表されてますが、「ラブリィ・レイディ」は波止場での歌です。
ちなみにバルジャンはこの町では「マドレーヌ」と名乗っています。美味しそうな名前ですね。町の近くにラ・マドレーヌ谷というのがあるのでここから取ったのかもしれませんし、キリスト教的意味合い(マグダラのマリア)かもしれません。
・コゼットの父親
名前はフェリックス・トロミエスといい、南西部のトゥールーズからパリにきて勉強している学生です。
ファンティーヌを捨てる1817年は30歳(1-3-2)で、その20年後には「地方の、有力で金持の立派な代言人、懸命な選挙人、非常に厳格な陪審員となり、相変わらず道楽者」(1-4-1)となっています。
余談ですが、「革命」する学生達の一人クールフェラックも地方の名士の息子で、トロミエスと似ているところがある(けれど義侠心があるのが違う)と記されています。
・パリを離れる
ファンティーヌはトロミエスとの関係の中で「働く習慣が薄くなり、快楽への興味が増していた」ので顧客が離れてしまい、困窮するようになります。以後は自分のおしゃれはすっぱりと諦め、持っていた絹やレースやリボンを全てコゼットに身につけさせ、それを喜びとします(1-4-1)。
パリを離れてモントルイユ・シュル・メールに向かう時には、「娘を養うために胸を悪く」して咳が始まっています。この咳が貧しく苦しい生活で悪化して、最終的に死に至ります。
コゼットを預けて一人戻ったモントルイユでは、これからの稼ぎをあてにして月賦で家具を買います。ユゴー先生はこのことを「生活の乱れていた頃の習慣の名残(1-5-8)」と説明しています。
工場を解雇された時点では家具の代金が返しきれておらず、取立てに追われるようになります。同時にテナルディエが要求する金額も徐々に増えていき、ファンティーヌは極貧に喘ぎます。
・コゼットを預けた経緯
少し話が戻ります。
ファンティーヌは22歳の時に、3歳になる前のコゼットを連れてパリを離れました。モンフェルメイユのテナルディエの宿屋を通りかかった時、楽しそうに遊ぶ小さい姉妹(コゼットと同じ年頃のエポニーヌと、その妹アゼルマ)を見かけ、そばにいたテナルディエ夫人に話しかけます。
姉妹が幸せそうだったこと、コゼットを交え楽しそうに遊ぶことからテナルディエ夫婦を信頼してしまったファンティーヌは、コゼットを預かってくれるように頼み込み、お金とコゼットの服をおいて翌朝去ります。その時は、すぐ迎えに来るつもりでした。
・転落
工場から追い出された後、暫くはシャツを縫う、髪を売る、前歯を売るなどして何とか暮らします。2012年映画のアン・ハサウェイさんファンティーヌも、歯を売ってますね。こちらは映像化の都合でか、奥歯になっています。ちなみにリノ・ヴァンチュラさん主演のドラマや新井先生のコミカライズでは、原作通り前歯を売っています。
しかしある時から賃金が大幅に下がってしまい、生活が立ち行かなくなります。折悪しく同時期にテナルディエから「いますぐ滞納している養育費を送らないと、コゼットを追い出す」と手紙が届きます。
こうした一連のことから、ファンティーヌは「最後のものを売ろう」と売春婦になる決意をしました。バマタボアと揉めるのは、その8~10ヶ月後です。
・「ファンティーヌの逮捕」
経緯については原作とミュージカルでかなり違うので、割愛します。
ファンティーヌと揉めるバマタボアは、トロミエスがパリに出なかったらきっとその一人になっただろうと書かれている「田舎紳士」です。
ミュージカルでもそうだと聞いた気がしますが、バルジャンと間違われて捕まったシャンマチウの裁判でも、バマタボアは陪審員としてその場にいます。ちなみに原作では、警部殿は証言だけしてさっさと帰ったので、バルジャンが名乗り出る時にはもういません。
鹿島茂先生の『「レミゼラブル」百六景』に詳しく解説があるのですが、今も昔もフランスでは売春それ自体は罪ではないそうです。ファンティーヌの逮捕はあくまでも喧嘩を咎められてのもので、両成敗でないのは「最下級の娼婦が市民を攻撃した」という先入観によるものです。
話が逸れますが、ミュージカルでファンティーヌが歌う「罪もないのに」「あの子は死ぬわ」は、英語歌詞だと「I never did no wrong(私は悪いことなんて何もしていない)」「My daughter's close to dying(娘は死にかけてる)」となっています。英語だと「罪もないコゼット」が死ぬのを嘆いているのではなくて、「私に罪はない、(なのに)娘が死んでしまう」と嘆いています。ちょっとニュアンスが変わりますね。
・保護されてから
逮捕を免れたファンティーヌは、バルジャンことマドレーヌ市長の自宅の中の病院に移され、そこで療養しますが、状態は思わしくありません。彼女を診察した医師は、会いたがっている子供を急いで呼び寄せるようマドレーヌ市長に忠告します。(1-6-1)
原作ではファンテーヌの保護、馬車の暴走、裁判の順番が入れ替わったり時期が離れていたりするので、保護されてから亡くなるまでの経過も少し違いますが、ここでは割愛します。
マドレーヌ市長が裁判に名乗り出るため出かけたのを、ファンティーヌはコゼットを迎えに行ったと思いこみます。戻ったマドレーヌ市長と話しながら、「門番か誰かの子」が歌っているのをコゼットの声と思い喜びます。ミュージカルでは死に際にコゼットの幻覚を見ているような歌詞ですが、原作では実際に子供の声がしているようです。(1-8-2)
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